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大量殺人鬼 鄭斗英事件

05 04, 2019
鄭(チョン)斗英は韓国の大量殺人鬼です。希代のシリアルキラーとも呼ばれた彼は僅か9ヶ月間で9人の市民を酷い方法で殺害した大悪党でした。



現場検証に同行させられた際の映像 凶器の野球バットを持つ姿



1968年、鄭斗英は釜山市で誕生しました。 彼は4人兄弟(男3,女1)の中で末っ子として生まれたのです。 所が鄭斗英2歳の時に父が死去し残された家族はその日の生活にも困る有様でした。

そこで鄭斗英の母親は別の男と再婚する道を模索します。そのためには4人の子供らが足手まといとなるので鄭斗英は叔父さんの家に預けらたのです。しかしそこに彼の居所はなく鄭斗英5歳の時には兄弟らと共に孤児院に預けられました。これが彼の人格を酷く傷付ける事になるとは母親は予想だにしなかったのです。




身長の低さがコンプレックスに



叔父さんの家や孤児院を行き来した鄭斗英でしたが、酷いコンプレックス(劣等感)を持ち合わせていました。それは彼の身長が低い事です。それは孤児院でも周囲から攻撃の種のひとつにされたようです。

父親に死去され母親に捨てられ叔父さんにも大事にされる事のなかった鄭斗英はこうして性格が捻くれてしまったのです。そして「泥棒をして金を貯めよう。それで悠々自適な生活を送ろう。」と身勝手な考えを持ってしまいました。

若干15歳の鄭斗英は強盗や窃盗などを繰り返し、少年院を出たり入ったりの生活を送っていたのです。

そして17歳の時には押し入った先の釜山の小学校で刃物沙汰を起こしたのです。 1986年5月の事でした。そこでは教室内で教師相手に凶器を振り回してしまいました。

その一ヶ月後となる同年6月には釜山市水営区で強盗殺人を行い逮捕され、12年間の収監を余儀なくされました。その12年間の間に中卒であった鄭斗英は高卒検定を受験、そして合格しています。 そして事件から12年後の6月に彼は塀の外に出る事を許されたのでした。



悪の道へ



1999年6月2日の事です。出所してまだ4ヶ月しか経っていなかった鄭斗英ですが、またもや強盗を思いつきます。これまでの逮捕経験で彼は用心深くなっており、押し込み強盗の下見では刃物などの凶器を持つと不審尋問などで不利となる事からいつも手ぶらで下見に行くようになっていました。

この日、鄭斗英は釜山市西区の高級住宅街に足を運びました。 勿論、そこで狙われたのは金持ちの家です。 この家は家政婦を雇うほど裕福な家でした。 そして家で家政婦が忙しく働いていた所へ鄭斗英が忍び込んできました。 そして家政婦と鉢合わせになります。 これに慌てた鄭斗英は家政婦に向かって全力で攻撃を仕掛けたのです。 

「バキ、バキ、、」
鄭斗英の攻撃は家政婦の頭部や顔面を集中的に捉えました。 この執拗な頭部や顔面への攻撃で彼女の頭や顔は見るも無残に潰れてしまいます。こうして家政婦は鄭斗英によって殴り殺されてしまいました。

同じ年の9月15日の事です。前回の事件からまだ3ヶ月しか経過していません。鄭斗英は再び強盗を計画、そして実行に移しました。今度の獲物は同じ釜山市西区の家でした。 この家は高級住宅ではありましたが低層階の集合住宅形式の家でした。

鄭斗英はこの家に押し入ったものの、ここでも家政婦と鉢合わせをしてしまいます。 ここで鄭斗英は家政婦に暴行後、殺害した上で家中から金目(かねめ)の物を奪って逃走したのです。



更に続く余罪



そして年が開けた2000年。世間は21世紀を祝っていた頃の出来事でした。 21世紀になって最初の3月の事です。 

その月の11日、鄭斗英はお祝い気分のまだ醒めやらない内に強盗を働こうと考えました。 ここでも狙われたのは高級住宅街です。
これまで同様釜山市西区で押し込み先を物色していた鄭斗英はソデシンドンの高級住宅地に押し込み強盗を働きました。




ソデシンドンの町並み



所が今回は家の住人二人と鉢合わせをしてしまいました。これに驚いた鄭斗英は家人を撲殺しようと試みたのです。一人目を野球のバットで殴り殺したものの、 もうひとりの家人は機転を働かせてとっさにこう哀願したのです。
「お願いします。赤ん坊がいるから助けてください。」

するとこれに仏心を起こしてしまったのか?鄭斗英は持っていた野球バットでその者を撲殺する事を躊躇してしまいました。眼の前の血まみれ姿の家人の息の根を止めずに鄭斗英は布団を使ってその者の自由を奪い、金庫を破壊する行動に出たのです。 その破壊音は隣家にもはっきりと聞こえる程大きな音でした。そして逃走の際、彼は証拠となる足跡を2つ現場に残してしまいました。




現場検証に同行させられた際の映像 凶器の野球バットを持つ姿




所がこの日、彼が起こしたその仏心が命取りとなります。 警察は家人から受けた緊急通報により現場に急行、家人から容疑者の人相風体を聞き出す事に成功したのです。
「犯人は男で年齢は20代~30代位。 背は低く痩せたか細い男だった。」
こうして警察は似顔絵を作成、その似顔絵は直ぐに各警察署に配布され韓国全土で指名手配されてしまったのです。こうなると鄭斗英の次の行動は「またもや強盗事件を起こす」と誰しもが予想出来たのです。

ソデシンドンでの強盗事件からまだ1ヶ月も経過していない同年4月8日。 鄭斗英は西区から同じ釜山市の東莱(トンネ)区に移動していました。
ここではDCM鉄鋼の会長職に就いている鄭会長の自宅を狙ったのです。 

運悪く、鄭斗英が押し込んだ時、家の中に高齢(76)の鄭会長と親戚の金さんとその祖母、そして家政婦が在宅していました。鄭斗英は相手が多数という事もあり先ずは鄭会長と家政婦の二名を所持していたナイフを用いて刺殺してしまいました。 そして金さんに対して刃物をチラつかせて脅し、何度も何度も殴打を繰り返しました。

この執拗な攻撃は頭部などを狙って行われたので金さんは頭部を酷く負傷し、意識を失ってしまいました。 この後、鄭斗英は家中を家探しして金目の物を物色し続けました。そして現金の他に小切手などを奪い逃走したのです。

彼が逃走した後、警察に通報が行われました。 駆け付けた警察官は家の中で血を流して死んでいた鄭会長と家政婦、そして気絶していた金さんを発見します。 唯一、意識のあった金さんの祖母から犯人の人相風体を聞き出す事に成功した警察は鄭斗英の起こした事件だと気付きました。



逮捕、そして裁判、そして死刑判決



一連の事件で鄭斗英は9人を無残に殺害、10人に重軽傷を負わせていました。 その手口は安易でありながら残虐な手法でした。「押し入った先の家で家人らに発見されたら刃物や野球のバットなどを用いて刺殺または撲殺」というものです。 

全国に指名手配されていた鄭斗英はそれから間もなく逮捕されてしまいました。 逮捕された鄭斗英は取り調べの中で「どうして一連の事件を起こしたのだ?」という問に対し「俺の中に悪魔がいるから」と答えたのです。


そして強盗殺人などの容疑で裁判に掛けられる日がやってきました。

2000年7月21日の暑い夏の日、釜山地方裁判所で鄭斗英に対し判決が下されます。
「被告を強盗殺人などの容疑で死刑を宣告する」
所が彼はこの判決を不服として即座に控訴したのです。

同じ年の11月。
既にその年も後1ヶ月で終わろうとしていた11月30日に釜山高等裁判所で鄭斗英に対し判決が言い渡されました。ここでは「控訴を棄却する」とした裁判長により第一審判決の死刑判決がそのまま適用されたのです。

この日、鄭斗英は最高裁で争う事を諦め、第一審判決の死刑を受け入れたのです。 しかし韓国には死刑制度は存在しているものの実際には1997年12月30日の23人死刑執行以後、韓国では死刑が中断されたまま現在に至っています。そのため死刑囚である鄭斗英は制度上「生きる事を許されたまま」の状態にて大田刑務所に収監され続けます。




死刑囚が脱獄騒ぎ




2016年、47歳となってしまった鄭斗英は大田刑務所からの脱獄を実行します。 この時、鄭斗英は刑務所での刑務作業として自動車用ワイヤーハーネスの製造作業を任されていました。その中で密かに作り続けた梯子(はしご、長さ4メートル)を使って刑務所の三重構造の塀を超えて逃げようとします。彼は予め用意していた毛布を用いて塀に施されていた鉄条網を覆い、そこで梯子を用いて脱獄を謀ったのです。

鄭斗英は3重の塀の内、2重部分までは超えたのですが最後の塀を超える際に警報機のブザーを作動させてしまいました。 そして監視中の刑務官らに発見され身柄を取り押さえられてしまったのです。





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Author:chopitonews
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