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射殺された日本人船員 第一大邦丸事件

05 09, 2019
1952年、韓国初代大統領李承晩(りしょうばん)は身勝手な考えの下、日本海に「李承晩ライン」を設定しました。これには当時の米政権も韓国政府に対して「李承晩ラインなど認める事は出来ない。国際法違反である。」と通告したのですがその頃の李承晩にはそれを受け入れる度量すらなかったのです。








韓国籍船舶がいきなり銃撃を



李承晩ラインが設定された翌年の1953年2月4日。
大邦漁業株式会社所属(福岡県北湊町)第一大邦丸(排水量57トン)は第二大邦丸(同57トン)と共に284農林漁区にて網を降ろしていました。 

この日、早朝から網を投入していた彼らの船の後方で見かけない船がこちらを監視していたのです。午前7時頃、その不審な船舶がゆっくりと近付いて来ました。

その船は片言の日本語でこう話掛けて来たのです。
「どうですか? 魚は獲れますか?」
その声の主は韓国人のようでした。 その後同船は第一大邦丸と第二大邦丸から離れた所に移動しますが、なにやらこちらを監視しているような様子が伺い知れました。

それからどの位の時間が過ぎた頃でしょうか? 正体不明のその船舶が再び接近して来たのです。しかし今度は友好的な態度を見せません。その韓国籍の船舶の乗組員はこちらに自動小銃の銃口を向け構えていました。

次の瞬間、韓国人は警告もなく自動小銃の引き金を引きました。そして第一大邦丸の船体に銃弾が雨あられのように降り注ぎました。慌てた第一大邦丸と第二大邦丸はその場を全速で脱出するのですが韓国籍の船舶は執拗に背後から追いかけ続けます。

午前8時15分。自動小銃を打ち続けながら追って来る韓国籍船舶は第二大邦丸を拿捕した後、逃げ続けた第一大邦丸の追跡を再開しました。

必死で韓国籍船舶から逃げ続ける第一大邦丸ですが積載していた魚や漁具の重さで思うように速度が出ません。しかも彼らの船には22名の船員が乗船していたから尚更です。

そしてとうとう韓国人の発砲した銃弾は漁労長瀬戸重次郎(34)の左後頭部に被弾したのです。 この被弾で瀬戸はその場に倒れ意識を失いました。彼の被弾に驚いた他の船員らは韓国籍船舶からの逃走よりも瀬戸の手当を優先しようとその場で船を停船させたのです。




済州島へ



瀬戸を銃撃で倒した韓国人らは第一大邦丸に近付き、
「済州島へ迎え」
と命令したのです。 第一大邦丸の船員らには瀕死の姿の瀬戸を見てそれに従うしかしかなかったのです。

拿捕から3時間後となる午前11時30分。 第一大邦丸は済州島の港に入ります。 そこには事前に無線連絡を受けていた韓国人の憲兵隊が待機していました。







第一大邦丸の船員らは憲兵隊に向かって
「早く漁労長を病院に運んでくれ」
と哀願しますが憲兵隊は後頭部から大量の出血をしている瀬戸を見ながら即座の対応を行いません。

やっと瀬戸が運ばれたのは病院とは名ばかりの粗末な建物でした。そこには高医院と書かれています。この高医院の医師は運び込まれて来た瀬戸を一目見るなり
「これは駄目だ。手遅れだ。」
で終わらせようとしました。

これに怒ったのが付き添いの第一大邦丸の船員らでした。 船員は韓国人の医師に向かって必死の哀願をしました。
「頼むから薬を与えてくれ。手当してくれ。」

しかし高医院の医師はこう反論しました。
「注射は高い」
それを聞いた第一大邦丸の船員は思わず、
「金なら俺が工面してやる。それならどうだ?」
とやり返しました。金を払うというその一言で高医院の医師は瀕死の瀬戸にリンゲル注射を打ったのです。




転院の約束が・・



この頃、第一大邦丸の船員と高医院の医師の間で一悶着がありました。医師は
「もうこの病院では手の施しようがない」
と船員らに告げるのです。ここで船員らは
「ならば、手術が出来るもっと大きな病院へ漁労長を連れて行ってくれ」
と頼みました。

かなりの時間やり取りが行われましたが憲兵隊側はそれを認め、
「車を手配する」
と約束をします。

しかし転院の約束も守られないまま韓国の憲兵隊は瀬戸を死なせてしまいました。2月6日午後11時の事でした。




荼毘に付すのも金次第



頭部を血で赤く染めた瀬戸重次郎の遺体を見ながら船員達は彼の遺体を葬ろうと思いました。そして船員らは憲兵隊に対してこう頼みこみます。
「漁労長の遺体を荼毘に付して欲しい」

しかしその頼みすら韓国側は拒否します。すると船員らは金が理由だろうと思い、金の支払いを交換条件に瀬戸の遺体を荼毘に付してくれと申し出ます。
すると韓国側はこの取引を受け入れ瀬戸の遺体を荼毘に付したのです。




取り調べも取引



瀬戸の遺体の処理で難儀している最中も韓国側の取り調べは行われました。 韓国側の取り調べ官は第一大邦丸の乗組員らに対して
「違法漁を認めろ」
の一点張りです。 第一大邦丸側もそれを認めると本国に迷惑が掛かる事を予期したのでしょう、それを認める事はしません。すると韓国側の取調官はこう取引を持ち掛けて来ました。
「どうだ? お互いの言い分を立ててお互いの主張する漁地点の中間点で妥協しないか?」

第一大邦丸の乗組員らは拿捕された後も韓国側から食事の提供もされず肉体的にも精神的にも衰えを感じていました。そして韓国側の妥協案を受け入れてしまったのです。




送還



既に拿捕から11日が経過した2月15日。
その日の早朝、韓国側の担当者が第一大邦丸の乗組員らにこう告げたのです。 
「本日、お前らを日本に送還してやる」
第一大邦丸の乗組員らはそれを聞いて安堵しました。 

午後1時、彼ら第一大邦丸の乗組員らは港に連行され第一大邦丸を返されました。しかし港でそれを見た乗組員らはとても悲し気分に襲われました。眼の前で見るそれは酷いほどの銃撃の跡が残っていたからです。

11日ぶりに第一大邦丸は彼らの手により機関を始動されました。しかし船内に存在していた筈の機材が韓国人によって奪われていたのです。

済州島の港を出た第一大邦丸は米海軍所属のエバンズビルに伴われながら日本に向けて舵を取ります。 そしてその日の午後5時半、第一大邦丸は佐世保港に入港したのです。佐世保港で政府関係者らに迎えられた第一大邦丸の乗組員らからは安堵した笑顔が見られましたがそこに漁労長瀬戸重次郎の笑顔はありません。

彼ら第一大邦丸の生存者が故郷福岡に戻れたのはそれから更に7日間を要したのです。




犠牲者多数、拿捕された船員の身柄と引き換えに・・



李承晩ラインでは韓国側の不当な取締により日本漁船233船が拿捕、身柄を拘束された乗組員は総勢2791人と後の日本外務省が公に発表しました。 しかし実際の被害はこれよりも大きかったと言われています。この李承晩ラインで韓国側の攻撃により発生した日本人死傷者の総数は44名だとされています。

当時の日本政府は拿捕された日本人乗組員の釈放を交換条件に韓国側の「在日韓国人収監者の即時釈放」を受け入れてしまいました。これらの在日韓国人犯罪者の中には凶悪犯罪者も多数含まれていたのです。 交換条件として釈放・日本永住許可をもぎ取った韓国人受刑者の総数は472人だとされます。彼ら韓国人受刑者は罷免されその後も日本に永住を続けました。

そして1965年6月22日、日韓漁業協定が締結され李承晩ラインは事実上無効となりました。



Posted in 韓国
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Author:chopitonews
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