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街は焼き出された人々で溢れ返り「シカゴ大火」

06 05, 2019
1871年10月8日から9日にかけて3日間もの間ひとつの都市を焼き続けた大火がシカゴ大火です。このシカゴ大火では市民ら300人が生きたまま焼かれたといわれています。 命からがら逃げだす事に成功した市民らですらその数は10万人以上ともいわれ、彼らは住む家も何のアテもなく焼け野原となったシカゴの町を彷徨い続けたのです。






シカゴ大火ではシカゴの都市は約3.3平方マイル(5.31平方キロメートル)が消失してしまったとされています。




きっかけ




恐らくはシカゴ大火のきっかけは小さな火災が始まりだったのでしょう。 言い伝えれている話では1871年10月8日午前9時、いある家の牛小屋でそれが始まったとされています。






その牛小屋の中で家人の主婦オリアリ(Catherine O'Leary)が牛の乳の搾乳を行っていたそうです。しかしその牛は搾乳を嫌がり直ぐ傍に置かれていたランタンを蹴り飛ばしてしまったというのです。 その倒れたタンタンから油と炎が牛小屋の中に敷き詰められていた干し草に燃え移りました。その炎を消す事に失敗した主婦の牛小屋から周囲の家々に炎が飛び火してしまったのです。






この日、延焼は留まる所を知りません。 街は消防組織を出動させ消火活動にあたらせますが鎮火の目途は一向に立ちません。それでも関係者らは「燃える家がなくなれば延焼は自然に止まるだろう」とタカを括ったふしがあったとされます。

しかし大都市シカゴでは燃える物(建物)に不自由はしなかったのです。



翌日もその翌日も3日間続いた大火



1日目となる10月9日になっても延焼は進むばかりです。 街の人々は家から焼きだされシカゴ川に集まり始めました。しかしシカゴ川ですら大火の影響で水温が上昇していました。

大火に見舞われたシカゴ市に強い風が吹き込んでいました。それは燃え盛る炎が一帯の外気温を上昇させ、その周囲の地域から冷たい風を巻き込むのが原因でした。 前日からシカゴ市のあちらこちらで火柱が上がっていたのです。 それは炎の竜巻そのものでした。






この日の夕方、一帯に降雨が始まります。 大火で巻き上げられた煤が上空で雨粒の核を構成し、その影響で雨が降って来たようです。しかしその雨でさえシカゴの大火を消火させるには力不足です。



3日間燃え続けた大火も鎮火



10月10日、既に3日目を迎えていました。この日シカゴの街は焦土化していました。 街の何処にも燃えるような建物は残っていなかったのです。 とうとうこの日、大火は鎮火したのです。






街のあちらこちらには家を焼き出されてしまい、ホームレス同然の生活を余技なくされた人々で溢れ返りました。 しかしこのシカゴ大火のニュースは新聞やラジオで全米各地に配信され全米からシカゴ市に向けて義援金や支援物資が続々と送り届けられるようになります。




人生を狂わされた女性と成功を収めた人々




当時、火元と名指しされた家の主婦オリアリは全米中で批判に晒されました。 実際に彼女が原因で出火したという証拠はいまだに見つからないのですが一度立てられた噂を鎮火させる事など誰にもできません。 主婦オリアリはその批判に晒されながら一生を終える事となります。



ジョセフ メディル



その反対にこの大火で人生最大の成功を手中に収めた人々も次々と現れました。 何処の国でも激甚災害で富や名声を掴む人が出現します。それは古今東西否定する事の出来ない事実です。 このシカゴ大火の翌月、ジョセフ メディル(Joseph Medill)は市民に対して「シカゴ大火で多くを失った我々は、火災に強い都市を再建するのだ。」と呼び掛け、市長選挙で勝ち抜き市長の椅子を手中に収める事に成功しました。




火災の被害規模



シカゴ大火では3.3平方キロメートルを焼き尽くしその被害総額は当時の金で2億ドル以上だろうと言われています。また人的被害は甚大でシカゴ市が確認できた焼死者などの犠牲者数は120柱が回収されたとします。しかし3日間燃え続けた大火で肉片どころか骨片ですら灰になるまで焼かれた犠牲者の数はつかみ切れません。 推測では死者300人以上であっただろうと現在でも言われています。

このシカゴ大火は後の同市の発展を支える礎ともなったのです。




Posted in 米国
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Author:chopitonews
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