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$1.79のジュース ラターシャ・ハーリンズ事件

06 07, 2019
ラターシャ・ハーリンズ(Latasha Harlins、1991年15歳で没)はアフリカ系米国人の少女でした。彼女の死はその後のロスアンゼルス暴動の引き金のひとつともなったと言われています。 このハーリンズを射殺したのが韓国系米国人の夫婦の妻でした。

15歳の少女ハーリンズが射殺された原因となったのは僅か1.79ドルのオレンジジュースでした。



Latasha Harlins





ハーリンズの人生



Empire Liquor Market Deliは米国の小さな食料品店でした。 事件の発生した店はロサンゼルスのバーモントビスタの91通りとフィギュエロア通り(Figueroa Ave)の交差点の角に位置していました。この店の経営者は51歳(当時)の韓国系米国人ビリー・フンギ・デュです。



ハーリンズ射殺事件の報道を聞いてデュの店に抗議目的で詰め寄せる市民の集団



事件当日となる1991年3月16日。家族経営のこの店は普段なら店主(夫)のデュとその息子が店番をしていましたが当日は妻(Soon Ja Du 、두자자)が店番でした。 その時、夫は妻に店番を任して自分は店の外に駐車していたバンの中で休んでいたとされます。
そこにアフリカ系米国人のハーリンズが買い物にやって来ました。彼女はウエストチェスター高校に通う学生でした。後にその時の様子をドュの妻はこう言い訳をしました。
「若い黒人女(ハーリンズ)が万引きをした。」

デゥの妻はその時の事を次のように説明しています。
「あの黒人女は自分のバックパック(リュックサック)にオレンジジュースのボトルを入れたんだ。」

それを目撃したドュの妻はハーリンズに罵声を浴びせ始めました。その時の光景は店の中に設置されていたCCTVにより証拠として残されています。

デュの妻はカウンター越しにハーリンズの着ていたカーディガンの左袖を引っ張り、彼女のバックパックを引っ手繰るように奪い取ったのです。ハーリンズも必死で抵抗しました。そしてハーリンズの右肘がデゥの妻に入ってしまい、その勢いでデゥの妻は倒れてしまいます。

これで怒りを抑えられなくなったデゥの妻はカウンター越しに椅子をハーリンズに向かって投げ付けました。 その勢いにたじろいだハーリンズはオレンジジュースを返し帰ろうとします。その直後、デゥの妻はカウンターの下から38口径の拳銃を取り出し帰りかけたハーリンズのハーリンズの後頭部目掛けて引き金を引いてしまいました。



背後から射殺された瞬間



銃口とハーリンズの距離は僅か3フィートでした。 至近距離からデュの妻はハーリンズの後頭部を狙い鉛の弾を撃ち込んだのです。
「パンっ!」
発砲音と共に倒れたハーリンズは二度と起き上がらなかったのです。即死でした。ハーリンズは代金を握り締めたまま死んでいたのです。



Latasha Harlins



この乾いた発砲音は店の外まで響き渡りました。実際の拳銃の発砲はTVドラマと違い実に大きな音を伴います。その発砲音を聞き付けたデュは店の外から店内に駆け付けると、そこに血まみれの若い黒人女性が倒れている光景を目撃することになったのです。そしてデュは911へ通報を行いました。




デュの妻の証言はCCTV映像とは大違い




デュの妻は警察に対して次のように自己弁護したのです。
「自己防衛だ。自己防衛で女を撃った。」

警察は店に居合わせた2名の客(姉妹、9歳と13歳)を呼び彼女らの証言を求めました。 2名は警察に協力しその場で見た光景を話し始めます。
それによると「デュの妻は黒人の若い女性に対して ”雌犬 !”と罵倒していた」事が判明しました。 そして「黒人の少女のは ”お金は払うつもり ”と言っていた。彼女は万引きを否定していた。」「あの黒人の少女は代金を支払おうとしてお金を手に握り締めていた。」と証言を行いました。

しかしデュの妻の話は姉妹の証言とは違ったものでした。 警察は2名の目撃者の証言を裏付ける目的で店内のCCTVの解析作業に入ります。 するとその記録映像に残されていた光景は2名の証言通りだったのです。 







裁判




裁判は開始され全米はこの裁判の判決に固唾を飲みました。
1991年11月15日、裁判所の陪審員らは警察の言い分を認めます。
「その瞬間、デュの妻は被害者ハーリンズを完全に制圧下に置いていた。 拳銃の発砲は偶発的事故ではない。」

所が判事はこれに異を唱えてしまいました。
判事のカーリン(Joyce karlin)は陪審員らの意見に耳を背けてしったのです。そしてデュの妻に対して保護観察処分5年間+地域奉仕活動400時間、罰金500米ドル、そしてハーリンの葬儀費支払いを言い渡してしまうのです。



「ビデオテープは戦い終わった後に少女が撃たれた事を示している」



この悪判決は全米を悲しみと絶望の坩堝に陥れました。そしてこれが後のロサンゼルス暴動のきっかけの一つになるという事を判事のカーリンはこの時知る由もなかったのです。

そして時代は1992年4月のロサンゼルス暴動へ駒を進めたのです。




控訴裁判所判決




1992年4月、カリフォルニア州控訴裁判所では全会一致でこの判決が妥当であると認めてしまいました。 この判定から2週間後、ロサンゼルス暴動が勃発したのです。 

ラターシャ・ハーリンズ射殺事件と一連の判決はロサンゼルスのアフリカ系移民と韓国系移民の間でこれ以上はない程の緊張を生んでしまいました。 ロサンゼルス暴動で破壊された店舗の65%が韓国系であった事は否定できない事実です。



デュの店のその後



ハーリンズを射殺したデュの店は一連の裁判の最中にボヤ騒ぎが発生していました。 そしてロサンゼルス暴動が勃発するとアフリカ系市民らとそれを支持するグループらによってデュの店に暴漢が大挙して押し寄せたのです。 デュの店はこの日、在庫の全てを暴漢によって奪われてしまいます。 そして彼らはデュの店に火を放ちました。 この火災でデュの店は焼け落ちてしまい、恐れをなしたデュは店の再建を諦めてしまいます。 その後デュの店の跡地は第三者に購入され食料品店Numero Unoが建てられたのです。







※米国では「ロサンゼルス暴動はロドニー・キング事件だけでなくラターシャ・ハーリンズ事件も暴動勃発の引き金となった」と言われています。








Posted in 米国
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Author:chopitonews
海外の歴史的事件や重大事故を記録しています

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